タローの日記

そこはかとなく書きつくる

五月雨式

五月雨式というのは、短い期間で頻繁に連絡をしたときに使われる形容詞だ(たぶん)。基本的にはあまりいい意味では使われない。「五月雨式に失礼します」「五月雨式になり申し訳ありません」といった風に、謝罪とセットで使われるのをよく見る。同じような意味でも、報連相の徹底とか、こまめな連絡とかいえば、なんとなくいい感じに聞こえる。「五月雨式に連絡を徹底します」というのは、なんとなく許されるような気もするがどうだろう。さらに、「五月雨式に黙ります」「五月雨式に料理をお出しします」とかも、なんとなく伝わる感じがする。
 五月雨式というのは、梅雨時に雨が降ったり止んだりすることを形容しているのだと思うけど、それだったら十月雨式でもいい気がする。呼吸式、トイレ式、タロー式なども考えられそうだ。これがタロー式だ、とか言っておけば、なんとなくかっこよくなって、すべてが許されそうな気がする。新たな式を確立して、命名してみたいものだ。

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これが讃岐式

秋になったけど意外と暖かいですね

 芸術の秋、食欲の秋、読書の秋と、秋には様々な活動が推奨されている。なぜ秋になるとこれらの活動が推奨されているのか、春・夏・冬は非推奨なのかは定かではない。また、推奨されている活動にもある種の制限があるようだ。例えば、呼吸の秋、節制の秋、アイドリングストップの秋などは、あまり聞かない。また、毎年推奨されている活動は大体同じだ。今年のお題、みたいな名前にして、毎年推奨する活動を変えれば、なんとなく面白がってやる人が増えるのではないかと思う(知らんけど)。
 僕だったら、今年のお題は「タローを見かけたら親切にする秋」にする。外に出たら、僕が日本中の人から親切にされるから、とっても楽しい秋になりそうだ。「タローに送金する秋」とか、「タローを崇め奉る秋」にしていないところに、僕の奥ゆかしさが感じられる(いや、じっさい崇め奉られても困りそうだけど)。親切にする、というのは、人によって解釈の幅があって、バラエティに富んだ親切が受けられそうでとても楽しそうだ。このお題が採用されたら、普段家で引き籠っている僕も、積極的に外に出ていくと思う(たぶん)。できれば、積極的に外に出て、リフォームの匠に会って、家をリフォームしてもらうという親切を受けたいところだ。そうなったら、秋が終わってからも快適に家で生活を送れそうだ。

フォルダを漁っていたらでてきた藤さん。なんか山頂付近に謎の縦雲がありますね。

もし腕が4本あったら

 僕は昔から数を数えるのが苦手だ(数でなくても、人も物もお金も数えるのは全部苦手だ)。小学生の時から、計算ドリルは指折りながら解いていたし、いまでもお釣りを計算するときに指で計算しようとして、諦めてお札をそのまま出している(もし僕に腕が4本ついていたら、あまった手で指折り計算していたところだ)。でも、なんとなく気恥ずかしさがあるので、人前では指折り計算なんて卒業してますよ、みたいな顔をして、隠れてこそこそ指を折っている。
 ところで、もし腕が4本あって、それぞれに5本ずつ指があったら、キリのいい数字は20になる。そうなったら、20進数で物を考えるようになるのだろうか。そうなったら、この社会で生きていくのはとても大変そうだ。なにせ、周りはすべて10進数で動いているのに、自分だけが20進数で考えないといけないのだから。たまに、AtCoderの問題で、2進数で考えないといけない問題があるけど、とてつもなく混乱する。2進数処理なんて高校時代から何度もやらされた処理だけど、いまだに慣れることがない。やっぱり、こういった規格のずれは、些細なことだけども、とてつもなくコミュニケーションを難しくさせるのだなと思う。もし腕が4本の宇宙人が来たら、文化交流を図るのは骨が折れそうだ。

大塚国際美術館で見かけた絵。もし僕だけが4本だったら、こんな風に足をかかえてしまうかもな...

今日の偉いことリスト

 今日の僕は偉かった。まず朝早起きした。ここ最近、12時くらいまで遅れていた起床時間を、一気に8時にまで早めることができた。えらすぎる。ついでに溜まっていたゴミ出しもやった。えらい。次に、仕事にとても集中して取り組んでいた。いつもなら、昼寝1 : 散歩1 : 休憩1 : 瞑想4: 仕事3くらいの割合のところ、今日は仕事8くらいは頑張っていた(だが進捗は芳しくなかった)。えらら。

 なぜこんなに偉かったのか、自分でもよくわからない。けど、昨日の反省が効いているのだと思う。昨日、ブログに書こうとして、あまりに恥ずかしくてかけなかった反省がある。その反省があったおかげで、今日はなんとしても頑張ろうと思えた。やっぱり、自分の思っていることを言葉にすると、客観的に自分のことが見れるようになるものだ。言葉と感覚、どちらも大事で、どちらが欠けてもいけないのだと思う。これからも、毎日少しずつでも何かを言葉にしよう。自分のことを省みれなくなったら、もうどちらに向かって歩いているのかもわからなくなってしまいそうだから。

眉山山頂のお花。きれいでした。

カキフライ

 柿を食べた。うちの祖母の家では、毎年この季節には大量の柿が実るので、そのおすそわけを頂いたのだ。ちょっと渋そうかなと思ったけど、意外と甘くて、なかなかに美味だった。
 そういえば、この前の水曜日のダウンタウンで、「カキ(柿)フライ」を出すというドッキリをやっていた。ドッキリを受けた人は、驚いてはいたけれど、意外とおいしそうに食べていた。柿フライも、意外と美味しいのかもしれない(絶対やらないけど)。
 そういう変わり種の料理でいえば、ゴーヤとチョコレートは意外とあうのではないかと前々から思っているのだけど、なかなか試せていない。コーヒー(苦いもの)とチョコ(甘いもの)が合うのだから、ゴーヤとチョコもあうのではという短絡的な発想だ。ネットで調べてみると、既に試している人が何人かいらっしゃったので、そんなに悪くない方向性だと思うのだけど。

清水公園の紅葉。本文とはなんの関連もありません笑

ガチマッチの魔力

 今日は友人とスプラ3をやっていた。始めてから1ヶ月くらいたつけど、僕は徹底してド下手プレイングに徹している(しかできないといったほうが正しいけど)。スプラ3の対人戦には、ナワバリバトルとガチマッチの2種類があり、ナワバリバトルはレートなし、ガチマッチはレートありである。友人とプレイするときは、いつもナワバリバトルを選択していた。レートなしなので、比較的緩い気持ちでバトルができるからだ(ガチマッチで害悪プレイングをかますことに多少の抵抗があったというのもある)。

 しかし今日、はじめてガチマッチに挑んでみた。挑んだ理由は、ナワバリバトルのルールに飽きたからである。さすがはガチマッチ。ナワバリバトルと違って猛者たちが集まっているのか、連戦連敗だった(ナワバリバトルでもそうなのは内緒)。ただ、たまにまぐれで勝つととてつもなく嬉しい。友人と声を上げて喜びを分かち合った(厳密には声を上げているのはスマホのスピーカーだが)。

 そこで驚いたのが、普段温厚な友人が、ガチマッチでは豹変して、感情をむき出しにして喜んだり怒ったり悲しんだりしていたことだ(愛はさすがに引き出せなかった)。その友人は、ガチマッチをやりこんでいるわけではなく、レートは最低のC-だった。だから、レートありとはいっても、まぁ気楽な気持ちでやれるかなと僕は考えていたのだけど、どうやら甘かったらしい。レートが絡むというだけで、あんなにも真剣度が変わってしまうのか。どうやら、ガチマッチには、人間を狂わせるなにかがあるらしい。確かに僕も、ナワバリバトルより感情が昂るのを感じたけど、そうはいっても所詮はバーチャル。負けても、どこか冷めた気持ちだった。でも、友人は全然違っていて、とてつもない温度差を感じた。別にそれが嫌というわけではなく、むしろそのほうがゲームを楽しんでいる感じがして、羨ましくすらあった。でも、次からはナワバリバトルでやろうかなと思ったのでした。

いまはランク15くらいです

心理的安全性っていうけど

 最近、心理的安全性が大事だと叫ばれている。叫んでいるといっても、実際に大声を上げて「心理的安全性~!!」と言っている人を見かけたわけではないけど、とにかく、各所でその単語をよく耳にする。実際、仕事をしていて、躊躇なく相談したり、腹を割って話せる関係は大事だと感じる。でも、心理的安全性にかこつけて、なんでもかんでも質問すればいいわけではない、そう思うようにもなってきた。例えば、DBのテーブル設計の話をしているときに、「唐揚げにレモンをかけますか?」などと質問することを続けていたら、クビになるか、窓際族になれるだろう(窓際族なら悪くないか)。だからといって、なにも質問できないのも問題がある。それこそ、心理的安全性がないチームだ。

 つまり、適切なタイミングで、適切な質問を投げられる能力が必要なのだ。その能力がある人材がいて初めて、チーム内の心理的安全性が重要な意味を持ってくると思う。えらそうなことを書いたけど、僕自身は適切な質問を投げられない。今日はずっと、上司の山登りの話が気になって、仕事の話が頭に入ってこなかった(仕事終わりに山に行くという話を聞いてから、ずっとそのことばかり考えていた)。仕事の話には何も質問せず、やっと発した質問が、「どこの山に登るんですか?」である。窓際族になる日は近そうだ。

昨日登った山。上司は、もっとすごい、2-3千メートル級の山に登る強者だ。